霊能者 スピリチュアルカウンセラー加藤眞澄のブログ

by dimension-shin

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どうぶつ

野生の動物が地震の前に大移動したり、異様な鳴き声をあげたりすることもあるようですが、ある種の周波数の異変を察知しているらしいのですが、自然界では敏感に異変をキャッチしてすばやく動くことのできる能力をもっています。

野生のではないですが、ペットとして飼われている犬猫小鳥等ももちろん同じ能力はあると思います。野性ほど研ぎ澄まされてはいないかもしれませんが、あきらかに人が聴こえない波長を感じ取っているようです。


人間と違ってかけ引きや思惑のない、より純粋な心を持っていますから、純粋にとらえることができるのかもしれません。

ペットの犬や猫が、部屋である一点を見つめて見定めているときもあるという話もよく聞きます。異様なものに対しては鳴き声をあげることもあります。

ペットはとても敏感な心で、飼い主さんを愛しています。ときに飼い主さんより先に危険を察知していますから、身代わりになることも本当にありえます。

けれど動物には「うらむ」ということは存在しません。

ただし、故意に動物を傷つけるような場合には、動物が持つ「鏡のような純粋な心」がありますからその心の放つ光によっていずれ身にふり返ってくることになります。

生きるもの同士すべてが共存されていくことが精神世界です。

共有されていかれないとしあわせは訪れてくれません。

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by dimension-shin | 2007-04-29 20:49 | 霊的な日常 | Comments(0)
「霊はいるのかわからない」「わからないけれど知りたい!」「視えないから信じられない!」「でもお化けの話は怖い!」 怖いという感覚とか感情が出ているということ事態が、すでに心の奥底でその存在(霊的な)を知っていることの答えなのではないでしょうか。


人は経験したことに対しては、回避しようとか気をつけようとか、怖いとかを自然に防御しようとするからです。

例えば、歩いていて自転車が急に曲がってきてぶつかりそうになったときに、次に同じ場所を歩くときには「ここは危険だから注意をしよう!」というように記憶に残り、自然に回避しようと心がけるものです。

意識の世界においても同じで自然に心が動かされてくるのです。

人として目で見えて、手にとって感じることのできない不安はあると思いますが、「霊という存在がいるのかどうかを知りたい」というように心が動かされてくるのです。

仮に「霊も何もあるわけがないから、知りたいと思うこともやめたほうが良いですよ」 と言われたらどうでしょう。それこそ考え思うことが断ち切られてしまいます。

やはりそうなのかと思う方も、いいやそんなことはないと考えが新たになる方といるでしょう。まさに感性の世界で精神世界は人間界に根付いてきています。


先ほど言いましたが、ご自分の心の奥底で知っているから受け入れたいと感じられるのです。屁理屈にもなりかねませんが、本来人は人間になって生まれてくるには母親がいて父親がいます。

その前はどこにいて自分という姿にを形成しようと働きかけたかを、想像してみてください。少なくとも形ではなかったということは理解できるのではないでしょうか。

分子とか原子の存在ですよね。みな同じく4次元の中で意識が漂いながら生まれてくるための準備をしてきたのです。

いまは3次元で生きて物事を判断している世界ですからとらえにくくなっているのは確かですが唯一自身の霊的な存在に意識が向けられるのは、「心の感受性」です。

心とか、考えることは人には脳があるから脳がすべてを司っているのだから、心なんて脳の一部なのだ。悲しくて泣くのも笑うのも感動することもすべて脳が動いているから成り立つんだと思う方もいるかもしれません。

確かに脳という存在は3次元に生かされるためのシステムとしては大変重要な機能で多くを司ってくれるのだと思います。それを創りたもうたのは、ただ単なる進化だけではないはずです。


話が前後してしまいましたが、ご自分の霊的な自由な霊性は心の奥に存在しています。考えずに感じることも大切です。

霊は、霊体そのものは私達すべてに備わっています。一番身近なのは心であり意識なのです。  
         
何ごとにも一生懸命にやってみたがこれ以上考えられない、もうできることはやり尽くしたと、すべて詰め込んで考える事を離れてボーっとしたときに、よい名案や発想が生まれてくることもあります。自分の内的な世界からのしあわせなインスピレーションも逃さないように。

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by dimension-shin | 2007-04-29 19:55 | 精神世界 | Comments(0)

自分がきらい

スピリチュアルな仕事上、ご相談の内容もさまざまですが、その中でも霊媒体質の方もいます。
自分でない何か(霊)に動かされたり、言葉を話したり、涙を流したりするような状態をそういわれています。
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実際、霊媒体質て悩んでいる方もいます。

例えばご家族がいる前で急に目がすわり、しゃべり方も違うし、離しかけても聞いたことと違うことを話し始めたり、体の力が抜けたような状態で急に泣き出してみたり、落ちついてから本人に聞いても覚えていなかったりするケースなどもあります。

霊媒体質の人は確かに動かされやすい面がありますが、何度も繰り返されたり、なおかつコントロールが効かないときには、自身が霊的意識に負けてしまっていることになります。


そしてこのような状態(霊的体質、霊媒体質)である自分を憎んだり嫌いになってしまったりすると、それこそ、その思いは霊的意識たちの餌食になってしまいますから、自分の強さと意識を取り戻していくための浄化をしていかなければなりません。

本当にプロの霊媒師が人に憑いている霊を呼び出して、体に乗せて、話したりするということを聞かれたこともあると思います。

感情のコントロールも上手く働きかけることで霊的に意識を持っていかれるようなことはないからこそプロの霊媒として成り立つのです。

私の場合は霊的な意識を捉えて交信していきますから、霊媒師さんとは違いますが霊的な体質をもたれている方で精神的に苦しんでいる方にいろいろな方向性から自分を責め苛むことがないようにお伝えしています。

責める気持ちというのは低級霊の格好の住処になりますからね、精神的に「低級霊をしあわせにするより自身のしあわせを考えることです」。        

              
             加等真澄
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by dimension-shin | 2007-04-29 11:49 | 霊現象 | Comments(0)

霊が集まる

a0097419_11464466.jpgもう20年以上前のことになりますが、機会があるごとに関東はもちろん全国のさまざまな神社仏閣をお参りしていた頃でしたが、ある有名なお寺の一つで奥の院といわれるところがありでかけて行ったことがあります。


どこでも奥の院といわれるところは山の上で、階段だったり勾配が少しばかりキツいところが多いのですが、ここも例外でなくどうにかたどり着くことができ、一度はきてみたいと思っていましたし、奥の院といわれる場所だけあって周辺の景色も美しく、気の流れが通る心地よさを感じましたが同時に人はいないのに見られている気配が気にかかりました。


その奥の院の周辺に何軒かの宿があり、予約をしてありましたので宿泊をしたのですが、少し古い感じです。古いということで怖いわけではありませんが、お風呂に入ると壁に無数の人の顔の影のような姿が視えてきました。


食事をしていても、とても息苦しいような感覚になり、今度は疲れたので布団に入ると先ほどからの息苦しさは続いてはいましたが、しきりにお腹が張ってくるのです。ポコポコ音を立てるように自分には聞こえていました。

その都度にお腹が膨らんでくるようでした。確かに着ていた服がきつくなってきていましたから苦しい。ガスが出るわけでもない。溜まってくるという感じでした。

これがいわゆる不浄仏霊なのはわかりましたが、あまりに沢山の意識でどうすることもできないのと、どうして欲しいとも思っていないのです。

ここは前述のようにあるお寺の奥の院ですから、このお寺の本山である奥の院に気持ちを置かれてこの地に宿っているような存在なのです。(お墓のような存在でもあるのでしょう)

こちらはそれを勝手に感知してしまうものだから辛い。

眠ることもできないし、暗い山道を歩いて降りるわけにも行かずに夜が明けて、早々に山を降りていくと、10分ほど歩いているうちにお腹の張りも抜けて、息苦しさも薄れて楽になってきました。

やはり奥の院の周辺だけを離れずにいる存在なのだということを実感したことを覚えています。

それほど信仰厚くそこに留まり、集まっている霊をもう少し浄化出きる力が、本山にないことも感じました。

神聖な信仰の集まるような拠り所は、修行者の方以外にも多くの方も来られて、願いごとや悩みごとをゆだねていかれる所にもなります。

神聖な場所は厳かに祈られ守られていかなければならないと思います。

これより何年か後に、年配の女性がここへ行かれて自宅に帰ってからも霊が憑いているので何とかして欲しいという方の相談をしたことがあります。霊査してみると波長が合ったのか、やはり女性の親子づれの姿が視えました。

昔、子供さんの病気の回復を願い信仰されていたようでした。気持ちがなかなかこの場所(山)から離れられなかったようですが説得して浄霊したことがありました。

信仰は人の拠りどころですがる思いで行かれる方のしあわせのためにも、パワーを与えてくれる本山は守られて欲しいですね。

              加藤眞澄  
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by dimension-shin | 2007-04-26 11:47 | 霊現象 | Comments(0)

霊感

霊感の強い人で視えたり聴こえたりすることもありますが、霊感が強いということはとても感受性が豊でもあります。

人の多いところや喧騒が苦手で、普通は気にならない周波数をキャッチするかのごとく、気が落ち着かなくていたたまれなくなるという人もいます。


それでもやむを得ず人の多いところへ出掛けるときには深呼吸してかなり気合をいれて、頑張っていく!(笑)人もいるのです。ご本人にとっては大変なことで、辛い人もおられます。

頑張っても出かけられないくらい深刻なケースもあり、敏感すぎる霊感の気の流れを変えて浄霊浄化させていかなければなりません。


体と意識に「気」をためやすいので、気功でも意識は上に溜まりやすいといわれていますが、お部屋でリラックスしてすわり、深く息を吸って吐きながら頭の上から意識を徐々に下の方に下げて丹田(おへその下くらい)に気をおろすように呼吸されるだけでも違います。 

また霊感の強い人で、ゲップやガスが溜まりやすい人も多いです。普段はそれ程でもなくても、霊的にきつい場所やある人と合うと極端にガスが溜まりお腹が張ってくることもあります。


霊的な気が溜まるようですが、それが浄化してくると今度はゲップやガスがたてつづけにでてくることもあります。

心身が違和感を整えようとしているのですが、このようなことも霊的な現象の一つでもあります。苦しいだけではありませんから、一呼吸して「わるいものを外に吐き出して、新たな良い気を吸い込むように呼吸して」呼吸からのしあわせをご自分にプレゼント。

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by dimension-shin | 2007-04-25 16:35 | 霊現象 | Comments(2)

お墓

最近はお墓に対してのイメージと捉え方が自由になってきていますが、従来どおりにお寺にお願いする方、宗教宗派にこだわらない霊園で墓石を建てる方、合祀墓、ローカー式の墓、また散骨してもらうだけでお墓はいらないといわれる方。a0097419_19133182.jpg

亡くなった後のことを大切に考えることは、霊的世界とのつながりを身近に感じられることの一つでもあります。

考え方はどれが正しいという一つの答えにはなりません。

霊的なご相談を受けてきました経験からいえば、立派なお墓さえあれば成仏できるというものではありませんが、先祖の供養をされることは尊敬をあらわし清浄であるための美しい方法ですし、亡くなられた方の思いや残されたご家族の思いがお墓を窓口にされて心をつなげていくことにもなります。

今年とても流行った「千の風になって」という歌の中で、わたしはそこ(お墓)にはいないからという歌詞がありますが、まさにそのとおりです。

亡くなった霊体と魂は自由でなければなりません。

ではお墓はある方がよいか?ない方がよいか?ですが、ご相談で結構多いのですが。立派なお墓がなければ成仏できないとだけは考えないことです。形あるものはいつかは消滅していくことにはなります。

ご自身の考え方やご家族の意向もそれぞれあると思いますが、こだわりすぎないことも大切だと考えて下さい。

姿の供養ではなく心の供養が伝わればよいのですから。

気持ちのこもった供養こそがしあわせなことです。見栄は霊界や魂には通用しません。


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by dimension-shin | 2007-04-25 15:15 | 霊的な日常 | Comments(0)

霊相談・体が重い

Q、40代の女性
 もう3年近くなりますが、体が疲れて首から背中にかけて重くて辛いのです。
何軒かの病院で診察を受けましたが、異常はないといわれて、はり治療、指圧、整体も受けていました。そのときには楽になるのですが、すぐにまた重さが甦ってくるような感じです。家族もおりますから仕事は頑張って続けていますが、家に戻ると張り詰めていた緊張がほどけるように身動きできないくらいひどいときもあります。


A,
 Bさんがいらしたときから私も体が鉛のように重たくなり、すぐにBさんの状態を受けとれました。複数の霊の意識を感じましたが、交信しても答えてきません。

元々人間だった存在ですから人の気持ちと同じで、すぐに心を開いてくれない場合もあります。

無理に交信せずに、Bさんとお話をしているとご実家のことが気になり始めたので、伺うと3代前の曽祖父の代に家を離れて跡を継ぐ人もなく家も近くの墓所も荒地になっているだろうと聞かされていたそうです。

話を進めていくうちに、やっとBさんに憑いている霊たちの意識が交信してきました。きちんと供養をしてくれないことに対して怒りをもっているようです。

荒地になったところには先祖のお墓もありますが、この地方で起こった戦いの犠牲者の弔いで供養されてきたところでもあり墓所が点在しているようでした。

Bさんの家系はそれを長く守られてきた家のようで、霊的な彼等の意識は無視をされていることに怒りを感じ、また行き場を求めていたのです。

何も知らないBさんには理不尽ですが、一度行って供養をして下さいと話したところ、早速、ご家族ととご一緒に行かれて荒地の草を刈り、墓らしきところ(昔のお墓で小さな石だけのため)にお供えし、線香を焚き手を合わせ、あといくつも点在する墓所すべてを把握するのは大変なため、一ヶ所にまとめて供養するために水晶を一つ埋めてお清めをし、時代の移り変わりとはいえ、長いこと何もせずにこの地を去ったお詫びを伝えて戻ってから、楽になってこられたそうです。

ちなみに3年くらい前からと言うことは、Bさんのお父様が亡くなられてからのようで、どうしてもBさんにわかって欲しかったのと、精神世界に気持ちを向いていただくためのご先祖の計らいでもあったかもしれません。

長い間の暮らしを重ねた所は離れるときにも、「飛ぶ鳥あとを濁さず」といわれるように、守られてきた先祖にもきちんとしたご挨拶をして離れることが必要です。

住みなれたところを離れたりするときには、たとえ何ヶ月か借りて住んだ部屋を越すときにもお世話になりましたと思う気持は、ひとときのご縁を頂いたその場所に対しての感謝と浄化される力を生み出してくれます。

感謝はしあわせを引き出す原動力になってくれます。

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by dimension-shin | 2007-04-24 15:58 | Q&A | Comments(0)

二重人格

自分以外の人と接するときに多くの場合、「接待モード」になって気を使っているものです。

たとえば朝、家族と喧嘩をした日に学校や仕事場に行っても何事もなかったように、他の人達には挨拶をし、なるべく平静を装って普通の会話をするように心がけるものです。

一部親しい友人には愚痴をこぼすかもしれませんが、なるべく関係のない人には喧嘩やトラブルのことは話さないし、話したくないものです。常に心は感情のコントロールをしていくようにがんばっています。

ただ感情の起伏が激しく、感情をコントロールできなくなると抑えているつもりでも、継続してしまい、これではいけないと思う自分の気持ちの中にそれを否定するかのような感情が、「怒りであったり」「人を責めることだったり」「自分を責めることであったり」など・・・・。

とめどなく気持ちの中に別の意識がいるような感覚が続いてくるときには、霊的な影響も受けていることもあります。

霊的なものの意識は人間がマイナス意識に陥ったときに入り込みやすくなります。

自分は二重人格ではないかと思うくらい、いつもの自分とかけ離れた感覚があったり、ただ霊の意識に操られてしまうと、自分の感情に戻りづらくなってしまい、人格が変わることもあります。

ご本人の意識に戻していかなくてはなりませんが、第一に理解していくには自分ではなくて霊的な仕業であることを受け入れることです。

意識の中で振り分けて霊と自分の違いを浮き出して行かなければなりません。

ご相談する際にはご本人とお話しながら、霊的な意識との交信をして振り分けていきます。はじめは自分が思うことだから自分ですよねと言われる方もいますが、感覚意識にも霊は憑くということをまず一番に知っていただきたいのです。

霊的にみれば、多重人格といわれる問題にもかなり霊的な問題が関わっているのですが、霊的に違うものが入れ替わっている場合もありますが、同じ霊意識(低級霊)が違う人格であるがごとくに動いている場合もあります。

人生はさまざまな不満も多いですが、「自分を生きる」ことが第一のしあわせでもあります。

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by dimension-shin | 2007-04-24 11:28 | 霊的な日常 | Comments(0)

散歩


覚えている範囲では小学生の頃から、すごく地味なことですが一人で散歩をすることが好きだった(根暗かな)。友人と遊ぶことも好きだったけれど、そういう時間とはまた別の趣味のようなものでした。

当時は一人でボーっと歩きながら空を見上げて神様は本当にいるのかな?などと考えていましたが、今でも散歩をすることは大好きです。

あまり車が通らない道を選んで
・ ゆっくり歩く
・ 風景を眺めながら歩く
・ ボーっと歩く

最近はテレビで「散歩の番組」までありちょっとしたブームですが、リラックスしてゆったりと歩くというのは、一つの瞑想タイムにもなります。

心に意識を向けながら、自問自答していくことで意外と言葉が湧いてきたりしますよ。

疲れた意識を休ませてリフレッシュでき、発想やビジョンのヒントも出てくることも多いです。

お時間のあるときにはおすすめします。見上げた空の美しさ、いつもは気にもとめない道端の花に目がいくことも、散歩中の子犬もいたり、小さなしあわせと出会ってください。


       加藤眞HPへ澄
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by dimension-shin | 2007-04-23 21:07 | Comments(2)

神様に関してさまざまなご意見をもたれている方がおられると思いますが、最終的にはそういう「思いの中に神は存在をしている」と感じています。

神様は白い衣装を身にまとい、光と共に出現されてくるということは物理的に、素晴らしい高次元の意識を、人間サイドで姿にあらわされて、美辞麗句を最大限に表現した形であると思います。

それ程に例えようのない存在であるのです。

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精神世界で考えるとしたら、神は「ある」と表現したほうがよいと思います。
神はあるかないかと聞かれるなら「ある」という存在です。

神を信じるか?信じないか?と問われれば「もちろん信じています」。

神はいますというのは、もっとより形にお祀りしたり、建造物を建てたりして「神」の存在を置かれる場所にされたときに、厳かにそこに神様がいますという神域を整え、神の御魂の宿るところになり、人の心の拠り所にもなってきたのだと思います。

人の心がきりっと引き締まるところで、神に思いをはせることができるとしあわせの容量がより深くなると思います。

空を見上げているだけでもよいですし、ようするに大自然と大宇宙とつながる自分を受け止める空間は必要ではないでしょうか。


加藤眞澄
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by dimension-shin | 2007-04-23 20:58 | 精神世界 | Comments(0)